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30/09/2008 桃介橋JR 東日本中央本線の南木曽駅そばを流れる木曽川にその橋はある。竣工は 1922 (大正 11) 年である。現在は国の重要文化財に指定され架設当時をできるだけ再現するように再建されたものであり、一帯は天白公園として整備されている。木曽川に多くの水力発電所を建設し『電力王』と呼ばれた福沢桃介が建設したものである。 橋はその発電所の一つで、現在はこれもまた国の重要文化財になっている読書発電所への資材運搬用のトロッコを通すために架けられた。そのため、私の『見とかないかんやろ、これは』リスト入りである。 ※最近同地方に調査に赴いて調査済みを削除したためほとんど空であるが、地図として同橋の場所の参考にして頂きたい。ちなみに、その調査済みの一覧は以下のリンクを興味のある方はご覧頂きたい。 構造としては橋脚は石積みで、その上にコンクリート製の主塔を 3 基備えた 4 径間の木製補剛桁で我が国最大級の径間を誇る吊り橋である。鉄道構造物を調べている身としては、もちろんトロッコが通っていたという点で興味をそそるが、それ以上に面白いと思ったのがこの福沢桃介その人物像である。 詳細は以下のこちらもぜひ読んで頂きたいが、Wikipedia の記事でも以下のような記述がある。
元々が貧しい家の出であるが、容姿端麗であったこともあって福沢諭吉の次女の婿養子となり(ただし相続権はなし)、持前の聡明さとハングリー精神であろうか、電力王として実をなし、政財界でも世界に通ずる人材であったようである。また、先に紹介したリンク先にあるが、『金持ちを退治する』という信念を貫き、後に政界に入ってからも政府高官の収賄疑惑を声高に糾弾したという。実に天晴れである。 ちなみに、この桃介橋の架設位置は福沢桃介自身の力を誇示するため土木の世界の常識に反し、木曽川の川幅が最も広い地点にしかも斜めに架けられたという。やはり漢である。
MSN ビデオ紹介動画もご覧頂きたい。
Google Map では同橋の航空写真を見ることができる 16/01/2007 筑豊地方の炭坑私の田舎は既に何度か当ブログでも触れた通り、福岡の筑豊地方である。かつては北海道と国内産炭地として競い合った炭坑の街だった。 盆踊りの唄で有名な『炭坑節』は筑豊地方で生まれた曲であり、歌詞に登場する『煙突が高いので・・・』の煙突は今も現存するものである。 ところで、一般的に炭坑とか鉱山とか聞くと比較的山間部をイメージする方の方が多いのではないだろうか。実はそうとも限らないのである。 『大辞林 第二版』によると、
とある。 つまり、読んで字の如しであるが炭坑は『あな』であり鉱山はいわゆる『ヤマ』である。山間部のイメージは後者である。 言われてみればというわけでもないが、私は最近実家(現在は引っ越したため実家ではないが)の周辺の旧版地形図を購入し確認したところ、実家のあった小高い丘にも『炭坑』があり、およそ山間部ではない。数キロも行けば違う炭坑がある。 最盛期には筑豊地方だけで大小合わせて数百の炭坑があったそうである。 狭い筑豊の盆地に炭坑がひしめき合っていたのである。当然悪影響もあった。炭坑による影響の最たるものは地盤沈下や土壌汚染等の『鉱害』であるが、鉱山の場合の影響もやはり鉱害なのだろうか。 この呼び名は同じなのだろうか。大辞林ではよく分からなかった。 私の田舎でも田んぼの土が『鉱害復旧』の名の下にごっそり入れ替えられたり、鉄道関連の書籍でも地盤沈下による随道(トンネル)の変状や駅のホームの沈下等の記述が見られる。 実は私が田舎にいた頃は既に炭坑は全て閉鎖されており、(最近知ったことだが)どうやら炭坑跡が開発されたニュータウンのような場所であったため当時の状況を知らない。 # つまり、若いとも言える。 旧版地形図を引き金に調査を始めようと思っているが、まず炭坑の事業所名や所在地等の情報を探している。 これが私の能力不足によりなかなか見つからない。 私としては旧版地形図に記載のある炭坑の位置から事業所名を割り出し、それをキーワードに調査をすすめたいと考えている。 旧版地形図によると、また筑豊地方に数多くあった炭坑への引込み線も実家のすぐ近くにあったようであり近所の池にも今は藪しかないのに橋が架かっていたことも分かった。 さらに、子供の頃には住宅地のど真ん中に不思議なコンクリート構造物があったり今思えば(現在もあるが)不自然な空き地があった。ここでは内緒だが、不思議な地名というか地域名もどきもあった。また、きっと知られざる坑口跡もどこかに隠れているだろう。 何とかその謎に迫りたい。私が見ている旧版地形図は大正時代のものである。自分の田舎のかつての姿を知りたいのである。 どなたか、筑豊地方の炭坑の歴史を追う際の有益な情報源をご存知ではないだろうか。 ぜひご教示願いたい。 12/11/2006 多摩川の砂利日本の近代化に大きく貢献したもののひとつに「砂利」がある。 はぁ? と思われる方もいらっしゃるとと思うが、ちょっと考えてみるとコンクリートには必須であるし、構造物の基礎部分にも多用されており土木・建築の分野では欠かせない材料であることがわかると思う。 当然これらは人工物ではないため、どこかで採取されることになるが関東では多摩川が砂利採取を語るときはずせない場所となる。 河川についてあまり知識がないが、奥多摩を水源として広大な関東平野に流れ込む多摩川は上流から大量の砂利を中流から下流域にかけて氾濫原と呼ばれる川の蛇行の跡に堆積させた。 人間にとってこの多摩川の砂利は非常に上質であったため古くから採取が行われているようだ。それは大正時代に起きた関東大震災で爆発的な広がりをみせることとなった。この頃から構造物へのコンクリートの使用が増加していったのである。 こう書くと普通だが実際は盗掘や乱採取が横行し、通常我々が河川敷と呼んでいる高水敷は数メートル以上掘り下げられ堤防は崩され多摩川に架かる橋の橋脚も地中埋設部が露出してしまい危険な状態となるなどいってしまえば滅茶苦茶であった。 また、実際の河川敷にとどまらず周囲の氾濫原の広い範囲で田畑を業者が買占め穴を掘って砂利を採取したため周辺の田畑に水が溜まらず周囲の農家が離農するためさらに買占めの範囲を広げ後に「砂利穴」と呼ばれる大きな池がいくつも出現した。 その名残は例えば等々力緑地であったり、府中の多摩川競艇場である。 興味のある方は昭和10年に内閣府より発行された以下の文章を土木学会の「土木デジタルアーカイブス」で驚愕の砂利採取の実態を見ることが可能なのでご覧頂きたい。 社会科の教科書ではなかなか取り上げられないのではないだろうか。 多摩川砂利採掘取締に関する状況 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/45517/tama-jyari.htm 採取された砂利は川べりで販売もしくは使用されるわけではないので運搬する必要が生じる。古くは砂利運搬船と呼ばれる独特の船が主流だったようだが重量物でありしかも大量となると鉄道が最も得意とする分野である。 近年の日本では物流の主役はトラックであり、特に都市部にお住まいの方は以前に比べ貨物列車を見る機会も減っているのではないだろうか。しかし、旧来鉄道はむしろ物資の輸送を目的に敷設されることが多かったのである。 これらの鉄道は後に旅客も扱うようになって発展を遂げたもの(例:南武線)もあれば、その後砂利採取の禁止と共に衰退し遂には使命を全うし廃線となったものもある(例:東急砧線)。 実は私はいわゆる廃線めぐりが好きである。もっと言えば廃線のみならず近代産業遺構をこの目で確かめたいのである。 私はまだ調査を始めたばかりなのだがこれら多摩川の砂利をめぐる鉄道を横断的に把握したいと思っているがどなたか有益な情報をお持ちの方はお知らせ頂けるとありがたい。 |
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